三鼎書道会研修会

2014年2月11日
上野区民館にて三鼎書道会研修会が開催されました。

「北朝の墓誌を中心とした展覧と解説」と題しまして、今成清泉先生が講師をされました。

会場には、現在、西安碑林博物館及び遼寧省博物館に収蔵されている墓誌銘のうち、主に河南省、河北省から出土しました北朝墓誌を中心に42点もの原石拓本が展示されました。

西安碑林博物館の墓誌銘は、近代の草聖と称される于右任が1935年に385基を西安碑林に捐贈する前に、拓工に命じて拓させた「元楨墓誌銘」をはじめとする数基、また民国の大収蔵家であった陶渉園がやはり拓工に取拓させた「顯祖品嬪侯夫人墓誌」を含む20数基は、陶渉園、羅振玉ほかの収蔵家が遼寧省博物館に捐贈した2000基の中から選んだものだそうです。

これらは何れも優れた拓工によって取拓された極めて佳拓であると言えるものだそうです。

区民館の床面に並べられた大変すばらしい拓本に驚嘆いたしました。

墓誌銘・墓誌銘の表題・墓誌の書式・蓋石の題字・墓誌の撰者と書者と墓誌銘についての全体像を詳細に語っていただきました。

原石拓本で、具体的に示してくださりながらの講演で墓誌銘についての理解を深めることができました。

以下に当日配布されました資料「墓誌銘について」と、「墓誌銘展示目録」をご紹介いたします。

今成清泉先生の長年にわたる碑刻研究の一端にふれられる機会を得ましたことに感激・感謝の研修会でした。

「墓 誌 銘 に つ い て」

以下今成清泉先生の文章を掲載させて頂きます。

三鼎書道会研修部

今 成 清 泉

墓誌とは簡単に説明しますと、故人の姓名、爵里、死亡年月、功績などを石や塼に書いたり彫ったりしたものを棺と一緒に壙中に埋蔵したものをいいます。

その歴史は古く、墓誌の起源は漢時代の刑徒塼まで遡るといわれています。

その頃は30センチ程度の大きさに年月日、籍貫(出生地の本籍)や刑罪、姓名などを記し、最後に「葬」などと書く程度の簡単なものでした。

この他にも、墓記、封記、画像石といった墓中に埋められたものも「墓誌」という記名はありませんが、墓誌の仲間といってもよいと思います。

ところで、漢代にはご存知のように「乙瑛碑」、「礼器碑」、「曹全碑」などといった八分の名碑がありますが、これらは個人の業績を褒め讃えた頌徳碑ですし、また、「開通褒斜道刻石」や「楊淮表記」なども険しい道路工事の完成記念と、これに尽力した人達の功績を讃えたものですから、墓誌とは少し趣が違うことはお解りだと思います。

440余年続いた漢王朝も後漢の延康元年(220)に滅び、やがて三国(魏・呉・蜀)・東晋時代を迎えますと石碑はぐんと少なくなります。

その理由の一つとして、魏の曹操が死者を葬る儀礼が華美になり過ぎると、国力が衰えるということで、建安10年(205)に「立碑禁止令」を出したことが挙げられます。

その後、西晋の武帝も咸寧4年(278)に同様の禁止令を出したために、当時としては、地上の碑にかわり、より簡便な方法として地中に墓誌を埋めるという形式が取られるようになりました。

そうした地中に埋められた最も早い例は西晋時代の永平4年(291)の「徐夫人管洛墓碑」で、このころは、ご覧のようにまだ碑の形式を小さくしたようなものでした。

それが東晋時代になりますと、王羲之のいとこにあたる「王興之墓誌」(341)のように方形の石に文字を刻す形式がとられるようになってきます。

このように漢時代から発展を経てきた墓誌は南北朝に入って更に大きく発展を遂げます。

とくに北朝に至っては墓誌銘の黄金期といっても過言ではありません。

ところで、南朝とは宋(420-479)斉(479-502)梁(502-537)陳(557-588)の4王朝が興亡をくり返した時代をいいます。

南朝の書は魏・晋以来の「立碑の禁」が未だ大きく原因していて碑石が少なく、墓誌としては「劉懐民墓誌」が最もよく知られています。

北朝については、別紙の図表が図示すように3代目太武帝が439年に華北を統一し、南北と対峙したことから始まります。

北魏は第6代の高祖孝文帝の時に洛陽に遷都します。

その後、北朝は図のように、北魏(386-534)、東魏(534-550)、西魏(535-556)、北斉(550-577)、北周(557-581)と興亡をくり返しながら、やがて隋王朝へと移っていきます。

北朝の書道資料は実に豊富で、1、碑、2、造像記、3、墓誌、4、摩崖、5、写経に分けられますが逐一例をあげず、今回は墓誌に焦点をあててみました。

文体の構造

ご存知のように、墓碑や墓誌には文体の形式というものが略ぼ定まっておりまして、明の王行の「墓銘挙例」というのがありまして、墓誌銘の作り方には、およそ13の要項があるそうです。

例えば、(1)諱、(2)字、(3)姓氏、(4)郷邑、(5)族出などですが、これを全部あげて説明するには紙面がありませんので、別紙に角井博氏が「司馬昞墓誌銘」を例にした、墓誌銘の文体構成を紹介しておきますので参考にしてください。

ただ、全てがこの通りではなく、多少順序の前後する例はあります。

墓誌銘の表題

某墓誌銘という表題は、あるのが先ず正しいと考えてよいと思います。

通常は「墓誌銘」ですが、「墓誌」或いは「誌銘」と書く例も少数ですがあります。

また、「墓誌銘」の下に「并序」の二字があるものは北魏では稀でしょう。

元羽墓誌のように「墓銘誌」とあるのは誤ったものでしょう。

墓誌の書式

誌石の大きさにつきましては、展示物を見てもお分かりのように、5、60センチ四方のものが大部分で、原則的に正方形かやや竪長の誌石に表面に界線を引き、朱または墨書で方格の中に一字ごとに書き入れています。

蓋石の題字

墓誌蓋の最も古い例は、北魏の「元楨墓誌」にその痕跡があることから、どうやら太和年間に始まるといわれています。通常は楷書が多く、中には篆書や隷書もあります。

墓誌の撰者と書者

碑文の撰者や書者について表記しないことは、漢碑と同じで、書いてある方が少数だと言えます。

撰者が明記されていても、それが文章の専門家であったり、兄弟とか関係者の中で文章を善くする人が記していることもあり一様ではありません。

書者についても専門の書工であったり兄弟親族が一つの誌石を数人で書く例もありこれも一定しません。

有名な書家が碑文を書くようになるのは唐代から盛んになったと思います。

しかし、墓誌については地中に埋まってしまうため有名な書家は書かなかったようです。

以上、墓誌について説明してきましたが、説明不足のところも多々ありますがその点、浅学非才故ご容赦願いたく存じます。

墓 誌 銘 展 示 目 録

1 元理墓誌 延興 4年(474)

2 元楨墓誌 太和20年(494)

3 咨議元弼墓誌 太和23年(499)

4 元泰安墓誌 景明元年(500)

5 穆亮墓誌 景明2年(501)

6 張整墓誌 景明4年(503)

7 顕祖嬪侯夫人墓誌 景明4年(503)

8 彭城王元勰墓誌 永平元年(508)

9 太尉参軍元恈墓誌 永平4年(511)

10 文成帝嬪耿墓誌 延昌年間(512-515)

11 趙郡王妃馮會墓誌 煕平元年(516)

12 通直散騎常侍王誦妻元貴妃誌 煕平2年(517)

13 元珽妻穆玉容墓誌 神亀2年(519)

14 斉木郡王元祐墓誌 神亀2年(519)

15 李璧墓誌 正光元年(520)

16 女尚書王僧男墓誌 正光2年(521)

17 元璨墓誌 正光5年(524)

18 彭城王元勰妃李媛華墓誌 正光5年(524)

19 青州刺史元晫墓誌 孝昌元年(525)

20 冀州刺史元壽安墓誌 孝昌2年(526)

21 西陽男高廣墓誌 孝昌2年(526)

22 文成帝夫人于氏墓誌 孝昌2年(526)

23 東莞太守秦洪墓誌 孝昌2年(526)

24 丘哲妻鮮于仲兒墓誌 孝昌2年(526)

25 元景略妻蘭夫人墓誌 永安元年(528)

26 司空公元欽墓誌 永安元年(528)

27 唐耀墓誌 永安元年(528)

28 東平王元略墓誌 建義元年(528)

29 廣平王元悌墓誌 建義元年(528)

30 散騎侍郎元挙墓誌 武泰元年(528)

31 范陽王元誨墓誌 晋泰元年(531)

32 城陽王元徽墓誌 太昌元年(532)

33 林慮哀王元文墓誌 太昌元年(532)

34 斉州刺史元鑚遠墓誌 永煕2年(533)

35 平南将軍元玕墓誌 天平2年(535)

36 王顕慶墓記 興和2年(540)

37 章武王妃廬氏墓誌 武定4年(546)

38 滄州刺史高建墓誌 天保6年(555)

39 順陽太守皇甫琳墓誌 天保9年(558)

40 楽陵王妃斛律氏墓誌 河清3年(564)

41 中正寇胤哲墓誌 宣政2年(572)

42 刁遵墓誌 煕平2年(517)